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8.6 8.9 3.11 いま、私たちの義務は?

2020年8月6日。75年前、日本史上、最も酷くおぞましいと言ってもいいほどの出来事が起こりました。世界で初めて原子爆弾が落とされ、広島市が、翌々日の8月9日には長崎市のたくさんの尊い命が犠牲になりました。

例年通り昨日も、原爆のニュースを見ていました。毎年のように見る、聞こえる、原爆のニュース。昨日もただ例年通り、どうやったら平和にいられるんだろう?と考えていました。そして、なんだかんだあっても、まだ第三次世界戦争が起こっていない世の中に、感謝していました。

けれどなぜか今年は一つ例年とは違って。ふと、9年前の福島の原発のことが頭に思い浮かびました。理由は、ただ単に「原爆」「原発」の単語が似ていたから、かもしれません。被災した人々のエピソードはいままでたくさん見てきたけれど、動物たちはどうなの?そうして、そこに今も孤独に残されているだろう、ペットや家畜のことを思いました。

気になったので「福島 原発 犬」と検索をかけて、一番目に出てきたサイトをクリックしました。

なんとなく開いてみただけだったのですが、読み出して1分も経たないうちに、私は息を飲みました。言葉の通り、絶句、です。載せられていた写真はすべて無断転載禁止なのでここには載せられませんが、そこには何枚もの餓死、白骨化した犬や牛の写真がずらりと並んでいました。スクロールするのも躊躇うほどのものです。

道端で薄汚れた首輪を付け、道端に横たわる犬たちの遺体の数々。飼い主を、食べ物を探していたんでしょうか。それを囲むように咲いている野生の花々が、彼らの死を弔っているようでした。

“コロ”と書かれたボロボロの犬小屋のすぐ側で、泥まみれの鎖から一生懸命に逃れようとした形のまま、息絶えている犬。はびこるウジ虫に埋もれて、コロの最期の表情も見えません。彼の目に、まるで、穴が開いたようで、睨まれているような錯覚にさえ陥ります。

吠えながら息を引き取ったのか、口をあんぐりと大きく開けたまま固まっている犬。こちらも錆びた鎖につながれていました。逃げたいのに、生きたいのに、飼い主を探したいのに、頑丈な鎖に首をつながれ、一歩も先に進めない。

足を必死に動かしても、ずっと同じ場所。もう出させないくらいに大きな声でいくら助けを呼んでも、誰も助けに来てはくれない。

それは、一体どれほどの恐怖なのでしょうか?

…私には想像さえもつきません。やはり、この写真もなにか強く訴えかけられているように、思えてなりません。

ペットに限らず、家畜も同様の姿でした。

彼らの中には餓死による自然死などではなく、人間によって、人間の都合で、奪い取られた命もありました。家畜が被災後、空腹のために食べ物を求めて、民家家を荒らしたために殺処分されたのです。

勇気を振り絞って、さらにスクロールしていきます。

次の写真は、一目では泥水かセメントと勘違いしてしまうほどの量と濁った糞尿に埋もれて死んでいる牛。そして、その隣に呆然と虚ろな表情をして座るしかない、もう一頭牛。正直この写真を見たときは、鳥肌が立ちました。自分たちの糞尿にまみれて、ただ死ぬ時を待っていたなんて。

彼らは死ぬ間際、何を思っていたのでしょうね。答えは知る由もないけれど、考えずにはいられません。

それにしても、食べるものはなかったのに、相変わらず糞尿は排出されて埋もれて死んでしまうなんて、なんて皮肉なのでしょう。牛は、人間を、もしかしたら自分自身の体も、恨んだでしょうか。もちろん被災後、ペットを助けにいきたいと願った飼い主は数え切れないほどいたでしょう。

そして政府はその切実な願いとは裏腹に、彼らの居場所の入り口に「立ち入り禁止」の看板を置きました。

その判断が間違いだったとは、思いません。

放射線は9年という年月が経ったいまでも、未だに残っていますし、人命を優先したのもわかります。国民代表としては、最善な選択だったのかもしれません。

けれど、許せないのは、これを報道していないこと。

私は記事を読み終えた後、どうしてこんなにも痛いほど真実を語ってくるものが、知られていないのだろう、と疑問を覚えました。ただでさえ彼らには、声がないというのに。少しでも広まって、誰かに知ってもらえたら、同じことは起こらないかもしれない。悲しいことに、そして恥ずかしいことに、人間は歴史を何度も 何度も繰り返します。

それはなぜか?

その理由の一つは、失敗が知られていないから、だと私は思うのです。失敗ひとつ ひとつを真摯に受け止めて、少しずつでも変わっていければ、いつかはもう同じ失敗をしなくてもすむと思うのです。たとえそれが目も向けられないような、残酷な事実であったとしても(現に私も耐えられなくなって、何度もページを閉じようと思いました)。

ペットに限らず、動物と共存することが必須な“明るい未来”も、戦争がない未来も、目指すには、私たち人間が過去の過ちを改めて考え直すことが大事なのかもしれません。

そして、それらの出来事を決して忘れることなく、次の世代に伝えていくことが、いまを生きる私たちの義務なのでしょう。

その写真をとったという方からのメッセージも添えてありました:

“糞尿だらけの牛舎の一角 に、白骨化した牛の遺骸がありました。茶色くたまった糞尿の上に、牛が横になった形のまま、白い跡が残されていました。

この白いものは何だろうと目を凝らせば、それは遺骨にたかったウジの大群でした。今はもう骨だけが、その牛が生きていた証として残されたものだと思いましたが、それ以上に、横になったままの牛に、白く痕跡を留めたその『影』こそが、ここで起きていることを強烈に印象付ける光景でした。

その『影』は、白と黒との違いこそあれ、ヒロシマであったか、ナガサキだったか…原爆の閃光とともに、ただその生きた姿を、壁に黒い人影として残して消えた人のことを連想させました。

作為によって刻まれた黒い影と、不作為によって残された白い影。両者に共通していることは、人間が命に順番をつけ、その結果、下の方に位置することになった命が、その時から『命』ではなく、『影』になったということです。

そして、おそらく、この影にもまた、人間は順番を付けるのでしょう。黒い影が上で、白い影が下、そう順番を付けるのでしょう。

動物は、人間の言葉を使えないがために、黙り続けているしかありません。人間は、動物の言葉を使えないために、あらゆる責任から免れることができてるようです“

– アニマルクラブ石巻 http://a-c.sub.jp/fukushima.html
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